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柳生宗矩【1】 鷹と蛙の巻

--> 裏表紙よりあらすじ
世をすねる。
そんな思いが確かにあった。
だが巨星徳川家康のひたむきな姿に接したとき、宗矩の眼は豁然と開けた。
この日、迷いは木端微塵に砕け散った。
文禄三年(一五九四)五月三日、家康が父石舟斎に入門した日が、又右衛門宗矩の新たな求道への旅立ちの日でもあった。
剣禅一如をなし遂げた男の生涯。

--> ここが読みどころ
柳生宗矩が家康に仕えるようになって一年余りのちのこと。
豊臣秀吉とその甥・関白秀次の関係はすでに余人では修正できないほど険悪となっていた。
国外では征明軍として海を渡った多くの諸将が朝鮮(なぜか著者は韓国表記)で苦戦している。
この上、秀吉派・秀次派と国内が二分すれば、それに乗じた明軍を日本に呼び寄せる大乱をも引き起こしかねない。
しかし、その両者を唯一仲介できると思われていた家康は、その両者から避けるようにして江戸へ向かう。
事実は輸送を断たれた在朝鮮の諸将のための渡海船の建造の指示のためであったが、秀吉はその間に秀次を自刃に追い込み、その妻妾遺児をことごとく三条河原で斬刑とした。
そしてその斬られていく妻妾たちの中に幼馴染である於万の前の姿を見た時、宗矩の怒りが爆発した。

そもそも宗矩が家康に仕える事になったのは、
──学問によってこの国の人間を造り替えなければ泰平はこない──
という家康の言葉と、それを自らが五十を越えて藤原惺窩を師として実践している姿に感銘を受けたからであった。
だがその家康が、すでに秀次を自刃させた後にもその妻妾遺児に前代未聞の仕打ちをする秀吉に対して諫言もせず、江戸へ難を避けていたと思い、幼馴染の無残な死をきっかけに逆上したのだ。

──人の情けを解さぬ者に人の道が分かろうや。
秀吉と秀次の争いを横手を打って眺め、その後の天下を盗もうとする下心。
“厭離穢土 欣求浄土”(穢土であるこの世を浄土にするために戦う)と小賢しく旗印としながら、自ら穢土をつくりなす。──

宗矩の命がけの体当たりに家康も正面から受け答える。
その問答の面白さは本書で味わっていただくとして、まさしく宗矩が家康を人生の師として従事し、のちに秀忠、家光の師となる素養を育み始めたのはこの頃からではないだろうか。

師と言えば宗矩にはもう一人、沢庵宗彭(沢庵漬けの考案者との俗説あり)を忘れてはならない。
宗矩が大徳寺三玄院で学んでいた頃からの仲だが、禅家特有の変わり者である。
臨済禅は荒療治とうそぶき、迷う宗矩の目を何度も開かせた。

山岡氏の作品では禅師が多く登場する。
別著では『勤皇論者の考えを理解するには禅をおやりになればよい』などと勧めるあたり、氏自身が禅に傾倒していたのかもしれないが、故人となった今では謎である。
しかし、度々登場する多くの禅師達はそれぞれの作品において、無くてはならない存在であることに間違いはない。

© 山岡荘八 歴史文庫 研究会
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