--> 裏表紙よりあらすじ 永禄十年(一五六七)、伊達政宗は奥羽米沢城に呱々(ここ)の声をあげた。 時は戦国、とはいえ、一代の英雄織田信長によって、戦国も終熄(しゅうそく)に向かい始めていた。 しかし、ここ奥羽はこの時期こそ、まさに戦国動乱のさなかだった。 激動の時代を生きた英傑独眼竜政宗、その生涯の幕開けである――。
--> ここが読みどころ 伊達政宗を語る上で欠かせない人物がいる。 虎哉禅師である。 万海上人の生まれ変わりと信じられ家中の期待を一心に背負った政宗のために政宗の父・輝宗は、岐阜より高名な虎哉禅師を政宗の教育の師として招いた。 虎哉禅師は政宗を一見し、大将となるには素直で線が細すぎると感じた。 そこで政宗に度々公案(禅問答)を出すことで強情我慢と臍の曲げ方を教えていく。 一例を挙げると、
――痛い時には痛くないと言い、泣きたい時には笑え。暑かったら寒いと言い、寒かったら暑いと言ってみよ。この不自然さが教育である。痛いも寒いも暑いもわざわざ教えなくとも人間が本来持っている感覚である。そしてこれらからは運命的に避けることが出来ない。絶対避け得ないと分かれば、これは克服するよりない――
――嫁を貰ったらこれと寝てやらねばならぬ。その代わり嫁と寝るのだから皆のいる所や戦場では寝てはならぬ。つまり寝たという姿は嫁以外には断じて見せてはならない。女子と寝るほど者がどこでもゴロゴロと寝るようでは男の中の男にはなれぬ――
事実、政宗は終生これらを守っていく。
山岡氏は別著「史談 家康の周囲」においてことごとく当時の若者達の飽き足らなさを毒舌で以って切り捨てている。 戦後民主主義の弊害は戦前・戦中生まれにとってはこの上なく我慢のならなかったものに違いない。 それをこの作品では虎哉禅師の口を借りて叱咤しているのだが、あの当時の若者達より輪をかけて骨抜きとなった現代の我々には山岡氏の心底をおよそ垣間見ることは困難である。 しかしながら、政宗がその後「二本松攻め、人取り橋の戦い」を通じて大きく成長していくように、我々もこの作品を通じて成長していかなければならない。
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