前ページ トップ 次ページ

新太平記【1】 笠置山の巻

--> 裏表紙よりあらすじ
天皇親政を願い、ひそかに鎌倉幕府覆滅を策した後醍醐は、こと露顕し笠置山に逃れた。
天皇の檄(げき)に応じた楠木正成は金剛山の小城赤坂に兵を挙げた。
自軍に百倍する幕府軍を思うがままに翻弄する正成の軍略。
しかし笠置が陥落、後醍醐天皇は捕われ、隠岐に流された。
地下に潜り、再起をはかる正成……。

--> ここが読みどころ
――正成一人、いまだ生きて世にありと聞こし召さば、聖運は必ず開くものと思召し下さりまするよう――
河内の一土豪・楠木正成は、鎌倉幕府に義兵を挙げた後醍醐天皇に笠置山にて召し出された時、増上慢ともとれる大言を吐いた。
天皇の側近はその言に驚くというよりも半ば呆れてしまった。
それもそのはず、笠置山に立て篭もる人数は二千余人、押し寄せる幕府軍は四万以上なのだ。
しかし、正成は勝利を確信していた。
非理法権天(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たない)を理想とする正成にとって、理のない幕府軍がどのような大軍で押し寄せようともすでにそれは形骸と見ていた。
それゆえに、正成が一族にくどく念を押したのは、戦に勝った後の心得であった。
過去の例をあげるまでもなく、心の紐をといたばかりに官軍が賊軍に成り下がった例は枚挙に暇がない。
一つの勝敗に一喜一憂するのではなく、まことの理を守っていくことが大切なのだと説くのだが、まさしく結果は天皇自身を含め、正成の心配していたことが的中するのだが、それは後のこと・・・。

それにしても正成の出自については不明な点が多く、正中、元弘の変以前については諸説様々である。
しかし義兵に参加してその後自決するまでのわずか六年間の活躍が多くの勤皇家の心を掴み、幕末から明治維新、太平洋戦争に至るまでの期間、ここまで多大な影響を与えた人物として稀であろう。
山岡氏も例外でなく、この「楠木正成」のある意味では「徳川家康」以上の信奉者ではないだろうか。

さて、山岡氏の作品ではお約束なのだが、他の「太平記」では徳の低い「後醍醐天皇」もこの作品では英邁であったり、聡明であったり、剛毅であったり(読者の思うまま褒め言葉を考えていただきたい)優れた人物である。
人間を決めるものは血筋ではない、教育である、環境であると別著で言いきる山岡氏だが、万世一系(諸説あり)の天皇家だけは別らしい。
その後醍醐天皇がついに捕らえられ死罪にもしかねない幕府の前に、天皇の赤子があらゆる知能を傾け命を賭けて、ようやく隠岐へ流されるに留まった。
もちろん、正成も偽りの討ち死にでこの世から消えた。

© 山岡荘八 歴史文庫 研究会
inserted by FC2 system